「プカプカ」を読んで発見した三つのこと(上)

pukapuka

西岡恭蔵さんの伝記「プカプカ」を読みました。三つの発見(気付き)がありました。2回に分けて書いていきます。

西岡恭蔵さんの伝記

西岡恭藏さんは1970年代のフォークソング創成期から活躍したミュージシャンです。

一般的には、本の題となった「プカプカ」という曲の作者として知られています。「プカプカ」はディランⅡの曲として世に出て、その後、原田芳雄、桃井かおり、桑田佳祐、福山雅治ら数多くのアーティストに歌われ、J-POPのスタンダード曲になっています。もちろん、西岡恭蔵本人も歌っています。

西岡恭蔵さんは亡くなる1999年まで、コンスタントに音楽活動を続けていましたが、ミュージシャンとしての知名度はそれほど高くありません。

衝撃的な最期

ただ、西岡恭造さんの名前が音楽ファンの記憶に刻まれているのは、ある衝撃的な出来事があるからです。

西岡恭蔵さんは最愛の妻、KUROさんをがんで亡くし、その2年後、妻の三回忌前日に自ら命を絶ちます。1999年4月3日、50歳でした。

私はその出来事のことを詳しく知りたくて、この本を手に取りました。そして読み進むうちに、これまで知らなかった三つの事実を教えてもらいました。これは私が知らなかっただけで、多くの人には周知の事実かもしれませんが、そのことをつづっていきます。

ここからは本の内容のネタバレが含まれますので、ご承知おきください。

作者はノンフィクション作家、中部さん

「プカプカ」の作者、中部博さんは音楽業界の人でありません。経歴を見るとノンフィクション作家として、HONDA創業者の本田宗一郎さんの伝記なども書いているようです。

本は丁寧に書かれていますが、音楽ファンからすると、音楽業界にかかわる記述などは、物足りなく感じる点もあるかもしれません。

しかし、音楽業界の人(音楽ライターなど)とは全く違った視点から、音楽業界を眺めている点が貴重で、興味深い記述も多くあります。

「プカプカ」のサブタイトルの秘密

「プカプカ」は1972年、ザ・ディランⅡのアルバム「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」に収録されています。曲のタイトルは「プカプカ(みなみの不演不唱)」となっていて、不演不唱にはひらがなで「ぶるうす」とふりがなが振ってあります。

こうしたサブタイトルは、あまりその意味を考えないで見逃してしまいがちです。私は「みなみ」は大阪の地名「ミナミ」だと思っていました。

また、漢字の当て字でカタカナを表現する手法はあまり好きでないのでブルースを「不演不唱(ぶるうす)」としているのも、あまりピンときませんでした。要するに読み飛ばしていたのです。

モデルは安田南さん

この「プカプカ」はジャズシンガーの安田南さんをモデルにした歌だと言われています。安田南さんは、当時としては進歩的な女性で、煙草をくゆらせ、お酒のグラスを手に、ジャズを歌う小悪魔的なシンガーでした。

Femme Fatale(運命の女)を体現したような魅力的な女性だったのでしょう。「中津川フォークジャンボリー」で帰れコールを浴びたのが安田さんだと言われています。

この安田南さんの南がサブタイトルの「ミナミ」でした。冷静に文字を見れば、分かることですが、この本で指摘されるまで気が付きませんでした。

当て字の理由も分かった

そうすると「不演不唱(ぶるうす)」という当て字も理解できるような気がします。「ブルース」とカタカナでは書いてしまうと表現できない、日本人ジャズシンガーの歌のニュアンスが伝わってきます。

この本には、当時の雑誌で行われた西岡恭藏さんと安田南さんの対談も紹介されています。

これが私の一つ目の発見です。

永ちゃんとの関わり

二つ目の発見は、矢沢永吉さんとの関わりです。

ロックやJ-POPの場合、作詞作曲はアーティスト本人が手がけるのが一般的ですが、矢沢さんの場合は作曲を本人が手掛け、作詞は複数のライターが担当していました。

初期の矢沢さんのアルバムには、西岡恭藏さん作詞の曲が何曲も入っています。西岡さんは矢沢永吉の音楽世界を支えた重要なクリエイターの一人だったのです。

西岡恭藏と矢沢永吉という組み合わせは奇妙な感じもしますが、この場合、西岡さんはライターに徹していて、矢沢さんのために書いた曲を自ら歌うことはなかったのだそうです。

解けた一つの謎

このことを知り、一つの疑問が解けました。西岡恭藏さんはこの頃、カリブやヨーロッパなどへ長期の海外旅行に行き、その体験を基に曲を書き、数々のアルバムを作っています。

失礼な言い方ですが、大きなヒット曲もない西岡さんがどうやって旅行費用を捻出していたのか、ずっと疑問に感じていました。実は西岡さんには、矢沢さんの作詞家としての収入があったのです。

ただ職業作詞家として、収入を得るために矢沢さんの曲を書いていたと決めつける訳にはいきません。

西岡さんが矢沢さんの作詞を手掛けたのは初期のアルバムだけですが、この本「プカプカ」には、こんなエピソードが載っています。

1999年、アメリカで西岡さんの訃報を知った矢沢さんは、急遽、海を越えて西岡家に弔問に訪れたそうです。

西岡恭蔵さんが矢沢さんの作詞を手掛けていたことは、永ちゃんファンには周知の事実でしょう。

しかし、私は全く知りませんでした。これが二つ目の発見です。

それまで見えなかったもの、見ようとしてこなかったものが見えてくるというのが、読書の面白さだと改めて感じました。

三つ目の発見は、妻・KUROさんの死と西岡恭蔵さんの自殺という重いテーマに関わることとなります。

稿を分けて、「プカプカ」を読んで発見した三つのこと(下)として書きました。